頭の中の「酒場白地図」に書き足す

幾度かの寒暖を繰り返し、ようやく安定して暖かくなってきた。夏が来る。昼間ちょっと外を歩くだけでも俄に汗ばみ、歩行距離に比例してキンキンに冷えたビールを体が求めてくる。仕入れで立ち寄る近所の酒屋が角打ち営業もしているので、「これも勉強」と何度も呟き自らに言い訳をしながらもう何度飲んだかわからない生ビールを注文する。果たして何を学習しているのか。

この季節は心地が良くて、用事があってもなくてもついふらふら出歩いてしまう。幸いなことにブックバーひつじがの周りには魅力的な飲み屋が多々存在している。大半は営業時間が重なっているのでしょっちゅう飲み歩けるわけではないが、店を訪れるお客さんから来店の前後で立ち寄った店や近所にあるおすすめの店の話を日々耳にするので情報だけが蓄積していく。街場の口コミほど信頼できるものはない。そして百聞は一見、いや一飲に如かず。昼間に開いてる店があれば(その後の営業に支障をきたさない範囲で)軽く一杯ひっかけに立ち寄り、夜遅くまで開いてる店には閉店後に帰宅のルートを多少弄って寄り道し、どうしても営業時間と重なる店はたまに設ける休みを使ってまとめて開拓。それでも行きたい店は次から次へと出てくるし、馴染みの店にも顔を出したい。時間も肝臓も胃袋も、なにもかもが足りない。

 この世の中に存在する「酒場」は数知れない。本を読んでも読んでも決して読み尽くせないのと同じように、毎日どんなに食べ歩いたとしてもすべての店を訪れ尽くすことは到底出来ない。でもだから楽しいのだと思っている。私には私だけの酒場白地図というものが頭の中にあり、好きなお店や何度も行きたいお店、行ってみたいお店などを日々その地図に少しずつ書き込んでいく。その作業が楽しい。
(『酒場の君』p76より引用)

巡った酒場19軒を紹介するエッセイ集『酒場の君』(武塙麻衣子)に書いてあったこの一節に深く深く頷いた。そう、訪れ尽くすことなんて到底出来やしない。だからこそいつまでもいつまでも楽しめる。日頃店を訪れるお客さんたちから教えてもらいながら、頭の中にある酒場白地図に行きたい場所として留めておく。実際に足を運んだ酒場は行きたいから行ったへと表示が変更されて、でもまたしばらく経つと行きたいに戻っている。その傍らで新たな行きたい場所が増えて、地図が賑やかになっていく。店にお酒を飲みに来てくれるお客さんたちの酒場白地図にはもしかしたらブックバーひつじがも載っているかもしれないし、載っていたらものすごく嬉しい。

今でこそ一人で酒場に飛び込むことに何の抵抗もなくなったが、根は小心者、緊張して知らない店になかなか入れない頃もあった。店の前を何度も何度も往復しながら中の様子を伺い、その様子をしっかり見られていて入店後に弄られる始末。そういう恥を何度もお酒で洗い流して、辿り着いた今がある。入った店に常連しかいなくて所在ない思いをしたこともあり、そんな中でその所在なさを紛らわすためにいつからかポケットに必ず文庫本を忍ばせるようになった。お酒を飲みながら本を読むようになったのはこの頃からで、それが今ブックバーという店の形に繋がっているから、人生いつの何がどこでどうなるかわからない。

料理を待っている間は持ってきた文庫本をカウンターの上にそっと出しておく。読んでもいいし、読まずに店内を眺めていてもいい。でもとにかく本を置いておけばとりあえずとても安心する。ページを開けば一瞬で馴染み深い世界だ。安心。
(『酒場の君』p78より引用)

『酒場の君』の中にも良く本を読む描写が出てくるなとは思っていたが、この一節を読んで納得。同時に文庫本をお守りに知らない店の扉を開けていた当時の記憶がぶわっと蘇った。そう、ページを開けば一瞬で馴染み深い世界に入れるし、入るかどうかはさておきそれが手元にあるだけで安心感が段違いになる。こればかりは騙されたと思って試してもらいたい。

知らない扉を開けることは恐ろしくもあり面倒でもある。おまけに慣れないうちは緊張もしてしまう。そんなことをわざわざしなくても今は簡単に手に入るなんとなく楽しいもので世の中は溢れている。とは言え緊張しても恥をかいてもそれを乗り越えた先にある楽しさを知ってしまった以上、もはやそこから出られる気はせず、今日も今日とて閉店後にどこに行こうかしらと頭の中で白地図を広げている。ポケットに『酒場の君』を忍ばせておこう。

▷書籍情報
『酒場の君』
著者:武塙麻衣子 Twitter(@MaikoTakehana
文庫本サイズ/79P

Text/シモダヨウヘイ
中央区白金で「ブックバーひつじが」を経営。2018年福岡に移住。買ったばかりの白い服に食べ物の汁をこぼすのが得意。利き手は左。胃が弱い。

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