記憶の蓋を開ける

先日知人の結婚式に出席した。

特定の会社や組織に所属せず、一人で店を続けて数年。祝いの席に呼ばれる機会もめっきり減ってしまい、久々の誘いに意気揚々とクローゼットの奥の方からしばらく着ていなかったスーツを引っ張り出して、袖を通した。

前の仕事ではほぼ毎日スーツを着ていたが、今の仕事を始めてから着用する機会は激減、それこそ冠婚葬祭のときにしかお世話にならなくなってしまった。そしてそういった機会は日常の中でそれほど度々あるわけではないので、袖を通す度ネクタイの結び方を忘れていたりボタンが閉まらなかったりといった己の変化(大半はあまり感心できない変化)を思い知らされる。今回ネクタイはギリギリ結べたものの、案の定上着のボタンが閉まらなくなっていた。最近ちょっと食べ過ぎてたもんなぁ。格好つけるための装いで格好がつかなくなり、当日は終始腹を引っ込めて誤魔化していた。醜い努力。

それにしてもあんなに毎朝首に巻きつけていたネクタイの結び方を忘れるなんてことがあるのかと残念な気持ちにもなるが、どんな習慣でも手放せばいつかは忘れる。せっかく覚えたことがひとつひとつできなくなっていくのもまた人間らしいといえばらしい。それが嫌なら忘れないように継続していくしかないが、仮にネクタイの結び方であれば忘れたとて調べれば簡単な説明が五万と出てくるし、そこまで深刻にならなくても良さそう。こんな悠長に考えてるから余計に忘却が進んでいるに違いない。

月日の流れによって記憶からこぼれ落ちたのはネクタイの結び方だけじゃない。前の職場で自分が一体どんな風に過ごしていたのか、そこにいた人たちとどんな話をしていたのか、それすらも朧げにしか思い出せなくなっている。確かに毎日決められた時間に出社して、決められた席に座り、決められた退社時間を極力遵守しながら何かしらしていたはずなのに、はて、私は一体何をしていたんだろうか。数年単位の記憶喪失。最近手に入れた『会社員の哲学 増補版』を読みながら、ふと我が身を振り返ってそのあまりの思い出せなさに愕然としてしまった。

 自宅で静かに考える時間が増え、なにかしら手を動かしたいとうずうずしやすいパンデミック下、一介のケチな会社員として、賃労働やそれをベースに組み立てられた資本主義という制度や、資本主義経済の論理をそのまま唯一の価値観のようにしてしまっている政治なんかについて、自分なりの考えを一冊の本の形にまとめたいという思いがふとやってきた。
(『会社員の哲学 増補版』p8より引用)

「はじめに」の中でも表明されているが、この本は全労働者を代表して社会や組織に対して何かしらを物申すものではなく、あくまで一人の会社員が自らの賃労働の中で出くわした問題を提起し、掘り下げ、自分なりの解や思想を見つけ出す試みを記したものである。自らを「町でいちばんの素人」と称する著者による当事者研究。その成果が「自由」や「責任」といった各テーマに沿う形でまとめられている。主語を大きくせず終始個人の目線で語られているが、その話には共感する点も多々あり、書かれている内容に触発されるように、それまですっかり忘れていた前職(会社員時代)の思い出が目まぐるしく甦った。

店を初めてからも度々尋ねられて前職の話をすることがあったが、そういったときに出てくるのは決まって楽しかった思い出ばかりで、それを伝えていくうちに「あれ? なんでそんな楽しい仕事を辞めたのかな」と自分でもわからなくなることがたまにある。そもそも職場にいた人たちには優しくしてもらっていたし、尋ねられる場面の大半は酒席なので、そんな中であえて酒がまずくなるような話もしたくはない。そんなこんなで結果的に明るい話題だけが記憶の引き出しから取り上げられ、それでもその時々で確かにあったはずの嫌な思い出たちは優先的に抹消されて、綺麗な記憶だけが残っていってるようにも思う。記憶の美化運動。そうやって誰に話すでもなく箱の中にしまった記憶や葛藤が、『会社員の哲学 増補版』のページを捲るにつれ次々と蓋を開けられていく。一会社員の当事者研究に目を通していたはずが、いつの間にかそれを介して過去の自分と対話をしていた。懐かしいというかなんというか、とても不思議な感覚。

僕がこの本で提案したいのは、会社のなかで主体的な「個人」として振る舞うことで「自由」を享受しているという錯覚を強化し、社会に対しては疎外された「部品」であることを黙認するような現状を拒絶し、転倒することだ。
(『会社員の哲学 増補版』p113より引用)

普段なるべくたらればの話をしないように心がけているが、この本を読みながら「もしこれを昔(会社員時代)の自分が読んでいたら」「もし今自分が会社員の立場にいてこの本を手に取っていたら」と次から次へと叶わぬ妄想が膨らんだ。これから会社員になる人。今会社員の人。かつて会社員だった人。会社員にならない人。色々な立場にいる人が自身の立ち位置からこの個人の哲学をどう受け止めるのか、読んだ人たちと話がしたいな、と思いながら読了した。

▷書籍情報
会社員の哲学 増補版
著者:柿内正午 Twitter(@kakisiesta
新書サイズ/160P
「はじめに」https://akamimi.shop/?p=1997

Text/シモダヨウヘイ
中央区白金で「ブックバーひつじが」を経営。2018年福岡に移住。買ったばかりの白い服に食べ物の汁をこぼすのが得意。利き手は左。胃が弱い。

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